人生はプロセスだ!ももたろう 宮安 増美氏


建部町文化センター

センター長

宮安 増実氏

宮安増実

2016.9.6

◆子供のころになりたかったものは?

 

医者

 

母は私が幼少の頃から入退院を繰り返していたので、医者になって母の病気を治そうと思った。

 

ところが小学校5年生の時に、母は胃がんで亡くなってしまい、その時から「医者になりたい。」という気持は消え去ってしまった。

 

その当時の前後の事は殆ど覚えていない。

 

覚えているのは、病院の母のベッドの横に3日間ぐらい泊まり込んだことぐらい。

 

母の傍に居たくて私がお願いしたのだと思うが、それも良くは覚えていない。

 

大学の頃に、精神分析や心理学を学んだところ、あまりにも辛い出来事だったため自分の中で封印してしまったのだと思われる。

 

父はというと何も言わない人だった。

 

父は長男として曾祖父に溺愛され、凄く大事に育てられた。

 

曾祖父(春吉)が凄く豪快な人で、明治時代一人でアメリカのシカゴに渡り、クーリー(奴隷制語が廃止されたアメリカで、それに準じる下層労働者のこと)になって働いた。

 

一生懸命働いて商売を始め成功した。

 

自分の次男をアメリカに呼び寄せ、さらにアメリカ国籍まで取得した程。

 

その国籍を朝鮮人に売り、多額のアメリカドルを持って日本に帰国した。

 

当時の相場で1ドルは1円程度だったらしいが、当時の1円は今の2万円位の価値があるので、相当な大富豪となったことが予測される。

 

岡山に戻り家を買い、多くの農地を買った。

 

帰国後材木商の娘と結婚、家も新築し裕福になったようだ。

 

ところが、戦後の農地改革が起きた時、殆どの農地を小作人に貸していたため、自分の土地として残ったのは家屋敷と自分が耕作していた農地だった。

 

更に、曾祖父(春吉)の長男(祖父)がお人好しでお酒飲み、お酒の形に農地を取られ、益々財産が少なくなってしまったという。

 

祖父にとってはとても怖かった春吉も、孫には優しかった。

 

孫の特権で父はまるで殿様のように育った。

 

そのため父は、何もしなくてもいいように育った。

 

曾祖父が亡くなった時は、父が添い寝していたそうだが、何事もなかったかのように母を呼びにいったと聞いた。

 

そんな父に、子供の世話など出来るわけがない。

 

父は母が亡くなった後、後妻をもらったが、教育をしてくれたのは叔父である父の弟であると思っている。

 

母の葬儀の時も、私の結婚式の時もスピーチしたのは父の弟である叔父だった。

 

母が亡くなってから、叔父は月に2、3度様子を見に来てくれた。

 

叔父の子供は女の子ばかりで、私を息子のように思っていてくれたのかも知れない。

 

来るときはいつも、本好きだった私に、歴史の本など毎回4冊くらい買ってきてくれた。

 

それがとても楽しみだったのを覚えている。

 

私が中学を卒業したころ、家の事情を考えて父に「中学を卒業したら働こうと思う。」と伝えると父は「うん、それが良いね。」と言った。

 

それを聞いた叔父が、父に「兄さん大学ぐらい出してやってくれよ。」と言うと、やはり同じように「うん、それが良いね。」と言ったという。

 

父はその言葉通り、私を大学まで出してくれた。

 

家業の土木建築業と農業で学費を稼いでくれたのだ。

 

私には一生懸命働いている姿は見せなかったが、父の育ち方を考えるとそうとう大変だったと思う。

 

何も言わず何もしてくれないと思っていたが、父の愛情を強く感じた。

 

今思えば可愛そうなくらいだ。

 

西大寺高校を卒業すると、東京教育大学に進学した。

 

大好きな叔父が教員をしていたので、私も大学の教員になりたかったからだ。

 

ところが、古代ローマ史を専攻したところ、授業がラテン語でとてもついていけない。

 

後でわかったことだが、弓削達先生という、後に東京大学の名誉教授になったとても有名な先生の授業で人気が高く、他の学生は皆ラテン語の授業だという事も承知の上で来ていた。

 

そんなこととは知らずに入学してしまった私は、道を間違ったと思った。

 

そこで一度、岡山に帰り受験をし直し翌年、京都大学に入学した。

 

大学教授になりたいと思っていたが、大学3年の頃に父が不整脈で倒れ、これは「それどころじゃない。」と思った。

 

父はその後、大事には至らず健康になったが、やはり「きちんと就職して自立しなければ。」と卒業後は、京都で就職した。

 

定年まで勤め、今年4月から縁あって建部文化センターのセンター長を務めている。

 

 

◆人生に影響を与えた言葉は?

 

1、「迷ったら厳しい道を!」

これは経験から得たことだが、楽な道は得るものが少なく、悪い人に出会う事が多い。

そして、楽な道に行っても満足は得られない。

 

2、「終列車、未だ発車せず。」

いつからでも頑張れば大丈夫。

「もったいない、何でも諦めずやりなさい。」という意味。

 

 

◆人生の転機は?いつ、どんなことでしたか?

 

小学校5年生で母が亡くなった時

 

当時の記憶は封印されたまま、ある時期のことが全く思い出せない

 

母が亡くなった後も普通に生きてきたと思っているが、よほど辛かったのだと思う。

 

 

◆人生で影響を受けた人物、本は?

 

人:叔父

父の分も私を育ててくれた。

感謝以外ない。

 

本:「相対性理論の世界―はじめて学ぶ人のために」

高校2年生の時に読んだ。

天文部に所属し、高校に天文台があったので土星や木星を見ることができた。

宇宙が面白いと思った。

原理原則は大切。

人生においても自分で調べて根拠を探す。

本当かどうかをいつも調べていた。

 

 

◆問題障害は?いつ、どんなことでしかた?

 

人生はプロセスだ!と思っている。

 

色々なことが起きても楽しむ。

 

一生懸命やったら結果は気にしない。

 

 

◆これからの夢や希望は?

 

精一杯生きてきた。

 

今はとにかく人生はプロセスだから、建部町という枠でなく、普遍的な人々の生活の場を充実し、プラスの方向にしていきたい。

 

 

建部町文化センター

http://takebe-bunka.jp/