岡山県神社庁!ももたろう 本郷 弘之氏


 

厨神社・福渡八幡宮・山王神社・龍川神社・稲荷神社

宮司

本郷弘之様

 

本郷弘之

 

◆子供のころになりたかったものは?

 

 

古くから宮司を務める本郷家18代目の長男として生まれた。

 

 

 一番喜んだのは祖母で、弟が二人生まれた後も祖母が亡くなるまで大事にしてくれた。

 

 

 だから当然のように、生まれた時から宮司になると決まっていた。

 

 

 神主になるのだから、考えがふらついていてはいけない。

 

 

 私がおとなしい子だったこともあるが、普段は優しく口うるさいことは何も言わない父だっただけに逆らうことは出来なかった。

 

 

 高校は地元の福渡高校に進学したが、やはり東京に出てみたいという思いは消えず、大学は東京の国学院大学の神道科に進学したいと思った。

 

 

 しかし、皇学館大学の理事で、伊勢神宮少宮司の慶光院俊宮司(後に大宮司となった)が父の友達だったため、「お前の息子はまかせとけ!」 と言われ皇学館大学に進学することになった。

 

 

 当時の皇学館大学には神道科はなく、国文学科と国史学科という学科名だったので国文学科を受験した。

 

 

 皇学館大学の創立は明治時代、内務省管轄の官立学校だったが、戦後、神道指令を受けて廃学。

 

 

 昭和37年、旧制神宮皇學館の関係者が中心となって私立大学として再興された。

 

 

また大学近所の学生以外12年生は全寮制だった。

 

 

 当時の寮は厳しく、門限は10時、アルバイトは家庭教師しかできなかった。

 

 

 寮は精華寮と言い、今でも名称も寮歌も変わらない。

 

 

 大学の卒業生は皆、「館友」と言い親しみあう。

 

 

 嬉しいことに息子たちも孫も「館友」である。

 

 

 私が大学を卒業して最初に務めたのは、 二見興玉神社。

 

 

 父の友達が当時の宮司だったので「今度は俺にまかせろ」ということで1年半程お世話になった。

 

 

 夫婦岩で有名な伊勢の二見浦にある神社で、猿田彦大神と宇迦御魂大神を御祭神とする。

 

 

 次が大阪の堺市にある日本武尊(やまとたけるのみこと)と大鳥連祖神(おおとりのむらじのおやがみ)を祭神とする大鳥大社に務めた。

 

 

 しかし、大きな神社だったので、父が「何でもできるようになってもらわんと困る」と言い宮司学を学ぶ意味で1年後、大阪の守口市にある、 素盞鳴大神(すさのおのおおかみ)と賀茂別雷神(かもわけいかづちのかみ)が御祭神の守居神社に努めた。

 

 

今思えば、この時代が一番楽しかった。

 

 

結婚もして、詩吟と出会った。

 

 

詩吟は、あちらこちらから教えてほしいと頼まれ、そののち教室を持つことになった。

 

 

弟子が32名を超え、岡山に戻っても同窓会に呼ばれ、懐かしい思い出を語り合ったことも嬉しい思い出の一つとなった。

 

 

 大阪の守居神社に7年ぐらい務めた頃、長男が小学校に入学するタイミングで父が帰って来いといったので、実家である厨神社に戻った。

 

 

 しかし、戻っても神職としての仕事は少ない。

 

 

 私が戻ったことを聞きつけた久米南町の教育長がやってきて、是非、教育委員会に来てほしいということで、職員として働くことにした。

 

 

 しかし、私は久米南だけにずっと留まるのは社会が狭いと思っていた。

 

 

 何か考えないと、と思っているところに岡山県の神社庁からお誘いの手が伸びた。

 

 

 当時の岡山県神社庁は高齢化で次期参事、次期事務局長になる人を探していたのだ。

 

 

しかし教育長からは、「神社庁の話は断ってほしい。」と言われた。

 

 

それでも、久米南から出て働きたかったし、神職が天職である私としては断るわけにはいかなかった。

 

 

 県の神社庁は、東京の代々木にある神社本庁を頂点とし全国47都道府県に一つずつある出先機関である。

 

 

 神社本庁の法律も勉強しなくてはならないし、神社一つ一つに不動産の謄本や会社の定款のような重要書類があり、それの管理も大切な仕事だった。

 

 

その他に、県内の神社で起きたトラブルの仲裁も大事な役目だった。

 

 

宮司と氏子の意見が真っ二つに割れたこともあったし、暴力団が絡んで警察沙汰になったこともあった。

 

 

そんなときは、朝でも夜でも飛んで行って相談にのる。

 

 

また、全国神社総代会 全国大会を岡山の国際ホテルで開催したときは全てを取り仕切った。

 

 

その他にも、岡山には高梁、新見地方に伝わる備中神楽を始め、備前、美作それぞれに獅子舞や棒使い等の伝統神楽がある。

 

 

その伝承にも力を注いだ。

 

 

やろうと思ったことは皆に喜んでもらえるまで続け、 59歳で退職するまで256年務めた。

 

 

 その約2年後に脳卒中で倒れ、だいぶ回復したが神道行事は次男にも手伝ってもらっている。

 

 

 息子は二人いて、長男は皇学館卒業後、自ら進んで岡山県出身の和気清麻呂公を祭る京都の護王神社に務めた。

 

 

 護王神社は狛犬ならぬ狛イノシシ。

 

 

 眷属(ケンゾク)=神の使者が、イノシシだったこともありイノシシ年の長男は運命を感じたようだ。

 

 

 次男は奈良大学を卒業後、皇学館大学で神道学を専攻し神主の資格を取った。

 

 

 今は美作高校で社会科の教師をしている。

 

 

 誰が後をとるかわからないが、長男の息子が今年、皇学館大学の一年生になった。

 

 

 

 

 ◆毎日欠かさずしていることは?

 

 

毎日朝起きて口をすすぎ身支度を整えて「大祓詞」を奏上する。

 

 

 神職としては当然の事と心得る。

 

 

 

 ◆人生の転機は?いつ、どんなことでしたか?

 

 

岡山県神社庁に入ったとき。

 

 

 神社界をもう少しプラスにしたいと思った。

 

 

 通勤電車では、規定集を読み、いつも勉強していた。

 

 

 

 

 ◆問題障害は?いつ、どんなことでしかた?

 

 

比較的順調な人生だが、神職というのは土曜も日曜もないので自分の時間はなく、いつも大変。

 

 

 しかも、あまり裕福な人はいない。

 

 

 江戸時代にさかのぼっては、神主の免許状を取るには吉田神道の本部である京都の吉田神社に行かなければならなかった。

 

 

 行くだけでも大変な時代なのに、今の神主の勉強より勉強量が数段多く、四書五経(ししょごきょう)に加え、面学やメジロの飼い方、花札まで習得しなければならなかった。

 

 

 ※四書五経(ししょごきょう)=四書は「論語」「大学」「中庸」「孟子」、五経は「易経」「書経」「詩経」「礼記」「春秋」

 

 

 やっとのことで免許状を手にして故郷へ帰っても神職だけでは食べては行けず、寺子屋をするものが多かったという。

 

 

 

 

◆これからの夢や希望は?

 

 

生かされているという時代に入ったので、特に望むものはない。

 

 

「蜂よりも 人にさされな うしろゆび」

 

 

厨神社: http://ww3.tiki.ne.jp/~hi6ro/

 

 

神社参事時代

 

・神道政治連盟岡山県本部事務局長

 

・伊勢神宮崇敬会岡山本部事務局長

 

・日本会議岡山副会長

 

繋あて多数、気付けば全国参事会の古産となっていた。

 

・神社祭式講師

 

 

 

趣味

 

・詩吟

 

・ゴルフ

 

・グランウド・ゴルフ