会社経営で地域に貢献!ももたろう 小坂田英明氏


株式会社 小坂田建設

代表取締役

小坂田 英明氏

小坂田英明氏
2016.6.22(水)

◆業種

建設サービス業


◆子供のころになりたかったものは?

考古学者

小学生の低学年の頃、インディ・ジョーンズみたいになりたいと思った。

ピラミッド等の古いものを発掘してみたかった。

子供のころは、学校から帰ると多くない宿題をしてから5、6人の友達と共に野山を駆け廻った。

あっちの山、こっちの山と蛇や虫など気にしたこともない。

古い椎茸の原木をほじくり返して、カブトムシやクワガタを捕って遊んだ。

もちろん怒られることもあったが、両親を含めそれほどひどく怒られたことはない。

のびのびと育った。


◆人生に影響を与えた言葉は?

「困難はあれど不可能はない。」

サラリーマン時代、大手ゼネコンで「トンネルの神様」と呼ばれた人に教わった言葉。

当時、会社のトンネル部門で仕事をしていた私は、入社1年目で特殊工法の開発に携わった。

そこでレポートを作成する際、とても難しい案件だったので、「〜は不可能。〜は不可能。・・・」と書いた。

それを見たトンネルの神様が、「自分は不可能と言われたトンネルをたくさんつくってきた。完成するまでに困難はあっても不可能なものは無い。」と教えてくれた。

実際、世の中には長大橋、飛行機等、不可能と言われていたものがたくさん実現化されている。

この時から、この言葉を実践にしてきた。


◆人生の転機は?いつ、どんなことでしたか?

今までに6つある。

1つ目、高校進学の時

父の仕事を継ぐ気持ちは全くなかったが、中学3年生の時、「工業高校の土木科に推薦で入れる。」と先生に言われた。

推薦だったら、受験勉強をしなくて済む!という安易な発想で、進学することに決めた。

土木の専門授業が思いのほか楽しく、この決断がその後の運命を変えたと思う。

2つ目、大学入学の時

体育以外の成績が良かったので評定平均が4.6あった。

大学進学希望ではなかったが、父が大学に行った方がいいというので、お金を出してくれるなら進学しようと思った。

担任の先生から「日大の工学部だと指定校推薦で進学できる。」と言われた。

それまでは、名古屋の大学に進学しようと思っていたが、先生から「お前が日大に進学すれば、大学に行ける学生がもう一人増える。」と言われ、「じゃあ、それなら・・・」と日大に決めた。

日大のことも知らなかったし、その校舎がどこにあるのかも調べないうちに推薦での進学を決めてしまった。

それほど安易な性格ではなかったので、今思えばご縁だったのだと思う。

結局、校舎は福島県の郡山にあり、名古屋よりずっと遠いところで学生生活をすることになった。


3つ目、大学卒業後の進路変更

大学を卒業するとき、岡山県で2番目に大きな全国規模の建設会社に父の知り合いがいたので、

縁故でその会社の採用試験を受ける事に決められていた。

ところが私としては大学院に進むと決めていたが、父の顔もあるので面接に伺いお断りさせていただいた。

それを知った周囲の人や面接官から「バカやな、家で修行して岡山に帰った方が良いのに」とぼやかれた。


4つ目、大学院一年目の教員への誘い

大学院1年の時、休学して1年間だけ工業高校の教員にならないか?とお誘いを頂いた。

誰もが断らないだろうと思っていたようだが、

実際の社会での仕事を教えられないので断った。


5つ目、社会人2年目での教員への誘い

岡山に帰って実家の仕事を継ぐつもりが無かったので、担当教授の紹介で東京に本社のある上場建設企業に就職した。

勤務地は東京以外の全国を希望したが、東京本社勤務となった。社会人としてのスタートを切った

社会人2年目には再度、母校の工業高校から教員のお誘いがあったが、数少ないトンネル技術者で会社に迷惑を掛けるのと今の仕事が楽しいのでお断りした。

サラリーマン時代の2年目のゴールデンウィークには、6日間の予定で名古屋のトンネルの設計にかかったが、難しいトンネルで、結局8か月もの間、名古屋に滞在することになった。

その後も横浜で生活しながら東京を中心に全国各地を飛び回り、スーパーゼネコンと呼ばれる大手建設会社と多くの仕事をした。

月のサービス残業は150時間を超えていたが、給与など気にならず仕事がとにかく楽しかった。

この時の仕事は今も思い出とともに地図に多く残っている。


6つ目、平成13年(2001年)10月、建部町に戻った。

理由は2つ。

1、子供が生まれることになり、子供を育てるなら「建部だろ」と思った。

2、東京は企業のIT化も進み、仕事のやり取りはもちろんのこと、図面もCADで描いてメールで送れたが、建部のIT化は皆無だった。

私を育ててくれた両親や、会社に勤めてくれている社員のこと、建部の発展のためにも戻る必要があると思った。

父の会社に入り現場で働き始めた。

しかし、仕事では父とよくぶつかった。

私が現場責任者として指示を出しているのに、父が後から違う指示を社員に出す。

「社員が迷うじゃないか!」と父に殴り掛かったこともある。

それと同時に建部の活性化に努めた。

花火大会やお祭りなど率先して手伝ったが、若い人は減っていく。

もっと企業が元気にならないといけないと思うようになり、経営に比重を置くようになった。

企業経営を継続して地域の雇用維持をしないことには人口が減る。

また、イベントのやり方等も実際に動く商工会青年部が減少することが判っていたため改革する必要性を感じたので提案をすると、

どれも最初は反対ばかり言われたが、一生懸命する中で皆さんの協力も得られて変わってきた。

地域活性化のイベントもこれからは、人(若者と高齢者)、企業、地域の一体感をつくらないと先に進まないし継続できないと思う。



◆人生で影響を受けた人物、本は?

3人いる。

一人目:トンネルの神様


二人目:サラリーマン時代の部長

お客さんは、金曜日の夕方に電話で仕事を依頼してきて、「月曜日の朝までに出来ていればいいから」という。

それって「土日に仕事しろ」と遠回しに言っていること。

部長は一緒に会社に寝泊まりしながら、資料の準備の仕方、文章の表現の仕方、交渉の仕方等を教えてくれた。

ABCと3つのプランを用意し、最初に見せるプランの順番を考え、時には全て見せず2つから選ばせる等の作戦を練り、相手や案件の種類によって効果的な文章表現があることを学んだ。

交渉の仕方は、部長の交渉を見て覚えた。

この時の部長は今、社長になっている。


三人目:大手ゼネコンのトンネルの担当課長

サラリーマンになって2年目、大手ゼネコンのトンネル担当の課長になぜか気に入られ、多くのことを教えてもらった。

資料の添削等までもしてくれる程に可愛がってもらった。今でもその方とは付き合いがあり、今はリニア新幹線トンネルなどの案件に取組まれている。


◆問題障害は?いつ、どんなことでしかた?

父の会社に入った8年目、2009年会社が倒産の危機に見舞われた。

私はそれまで現場ばかりで経営に携わったことはなかった。

どうもお金回りがおかしいので、専門家に経営診断をしてもらったところ、年間1億1千万の売上に対して、借入が1億2千万あった。

父としては、世間体もあったかも知れないが、息子に会社を受け渡すとき、借入金を無くしてから渡したいという思いがあったのだと思う。

母と二人で踏ん張っていたのだろう。

借金は膨れ上がり、利息を含めた毎月の返済額は230万円以上になっていた。

昔から、どんぶり勘定で経営をしていたためだ。

昔は100円で売れていたものが、今は80円でしか売れなくなっても同じことをしていた結果だ。

それに、建設業は公共工事の場合、大きな仕事では工事を請負って最初の段階で40%まで入金になり、途中で20%入金になるが、残りの40%は立替えて工事となるため

工事金額によっては数千万円のお金が会社に必要となり、工事が完成しても、検査が終って1ヶ月程度たたないとお金にならないこともある。

会社が厳しい状況と判ってからは、私が資金繰り表をつくってお金の流れを把握し、会社の利益率を管理した。

一度は倒産を覚悟したが、小さな仕事も請負い、雇用を維持しながら一生懸命会社を存続させ借金を減らしてきた。


◆これからの夢や希望は?

創業100年を目指して、更なる自社事業の改善と継続への取組を加速させ、雇用についても少しでも増やせるように頑張り、

今後も地域に還元して行きたい。

また、今後は、発展途上国に日本の土木技術を転用できないか考えている。


昨年は、タイ・ミャンマー・ベトナムに行き、今年のゴールデンウィークはバングラデシュに視察に行ってきた。

今の日本では、高度成長期に作られたインフラ構造物のメンテナンスに多額のお金が必要となっている。

今、成長過程に入っている国々に日本の土木技術を転用できれば、成長期に品質の良い構造物をつくることができ、

将来的なコストを削減できるのではないかと思う。

この取組は、「若い世代に夢を」という考えで進めている。


株式会社 小坂田建設
http://osakada.co.jp